春の終わりに綿毛と遊ぶ
- Giro
- 5月7日
- 読了時間: 3分
ちょっとイベントやスポーツの撮影をしていると
カメラや写真というのは、望遠を担いで 1日何時間も連写しまくるものだ、くらいに思ってしまう。
いや、思いはしないが、身体がそういうものだと感じてしまう。
だいたい、ある程度以上の全長のレンズを使っていると
そもそもカメラの構えた方が標準レンズとはかなり違う。
肘を引いて左手を前に伸ばしたような感じになって
正直これを数時間続けていて身体にいいわけがないなと自分でも思う。
そんなわけで、そういう撮影の後は勘を取り戻しつつ
身体のリハビリを兼ねて、家の前で単純にタンポポを撮ってみた。

ドタバタしていると日にちや曜日の感覚はもちろん
季節感すらなくなっていくので、そういえば4月だったな、もう5月か
春から新緑、初夏に入っていってたんだな、なんて思う。
タンポポの綿毛みたいに茎も細くて小さな被写体をちゃんと注視して引き立たせるには こういうレンズは使い勝手が良い。
雑草が咲いていたり、もう散ってしまったタンポポがある中で 小さな子どもが綺麗な綿毛を見つけてふーっとやりたくなる、みたいな空気感が出せれば。
同じレンズでアプローチを変える。

綿毛だけを捉えるのではなく、周囲の草花全体で
1つの身体やコロニー、あるいは社会として捉えると綿毛だけに注目した時とは
また違った景色が見えてくる。
自由気まま、縦横無尽に咲く他の草の間からひょっこり首を伸ばした
綿毛が妙に可愛らしい。周囲の描写とのバランスを見ながら絞りはf/2.8で。
更にアングルを変えて。

1枚目は水平に奥行き感を前後に出してみたが
目線を上げて見下ろすようにして、奥行きを上下に出してみる。
すると、覗き込んだところで綿毛を見つけたような光景になって、また雰囲気が変わる。
手前の草が良い感じで、こういう演出されてないバランスは、自然ならでは。
私が変に草を動かしたりするともっとセンスが無い形になっただろう。
レンズを変える。105mmのマクロで。

同じ覗き込んで見つけた感じを出すにしても、マクロレンズで寄りつつ 前ボケ、後ボケ、そして被写界深度の幅で良い感じの描写を探ると
なんだか深い草むらや森の奥地でひっそりとさく綿毛を見つけたような画に。
マクロレンズだからといって、これでもかと寄る必要は無い。
寄れる自由度が高く、描写の癖や特性を掴んで狙いを持って使っていきたい。
ガラッと雰囲気を変える。

傾いてきた夕日をバックに思いっきり逆光で。
さっきまで分かりやすく新緑だったのが、世界から急に色が消える。
といっても、あえて白黒にしたり、現像で極端に色をいじったりはしない。
カメラは光を記録する機械だが、それは言い換えれば影を記録する機械でもある。
周囲の草の滲み感も狙ってカメラと被写体の距離、光の角度を何度か試しながら。

子どもの頃、夕日の時間帯の時に感じていた、あの独特の気持ち。
まだ遊びたいけど、もう帰らないと。
油断しているとあっという間に暗くなってしまうあの不気味さ。
明るい時間帯には何度も歩いているいつもの道なのに、日が落ちると急に怖く 知らない街を歩いているような不安な気持ちになった。
明るい中で、子どものような気持ちで綿毛を探していた時とは打って変わって 今度はこの草花たちの世界に自分が迷い込んでしまった異端であるかのような怖さを胸に。
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