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  • 執筆者の写真Giro

自由とは選択肢を増やすことである




1月後半から3月頭付近までがほぼ仕事ができない状況だったのだが その反動なのか、3月4月は一気に忙しくなってしまった。


そしてありがたいことに幅広く撮影の仕事もあったわけだが その中で色々と感じる事も多かったのであれこれと書いていこうと思う。 いつもながらまとまりが無く冗長になるかもしれないが。




ところで「ベイクオフ」という番組を知っているだろうか。 いきなり関係ない話じゃないかと思われるかもしれないがお付き合い願いたい。


元々はイギリスのTV番組(The Great British Bake Off)で 全国から集まった料理自慢?料理を作るのが好き?なアマチュアたちが お題に沿った料理を作り、プロが順位を付けていき 最下位の人が脱落していく、といった内容。


最近日本版の「ベイク・オフ・ジャパン」がアマゾンプライムで 配信開始されたこともあり、世間的にも我が家でも熱が再燃している。


優勝したからと言って莫大な賞金がもらえるわけでも お店を出す権利が得られるわけでもないが それゆえに、参加者は純粋に楽しみながら 自分の料理の腕を試すことができ、他参加者(ライバル)同士でも仲良くなったり 時に協力、アドバイスし合ったりするところが微笑ましい。


また、評価を下すプロは、もちろんプロとしての視点から アマチュアにとっては時に辛い評価を下すこともあるが 決して相手を否定するようなことは言わないし、見ていて助言も的確に感じる。


気付くこと、得ることも多く、個人的に大好きな番組である。




生物は生きていくうえでエネルギーを取り込む必要がある。 つまり「食事」だ。 高度に管理された状況下であれば点滴だけでも生きていけるわけだが 少なくとも現代においては、あまり一般的ではない。


野生動物はそこにあったものを食べる、がベースかもしれないが 人間はそれを「調理」する。

より安全に、より食べやすく、より効率よく、そしてより美味しく。


しかし、調理、料理の本質とはそれ以外にある気がする。 それは「自由」である。




うちの父は退職するまでほとんど台所に立ったことが無かったのだが 退職を機に、母は食事の当番制を敷き、土日のどちらかは 父が家族分の夕食を作る、という風になり また昼食は昨夜の残り物が大量にあるとかでなければ 各自で作って食べる、という風になった。


田舎の元農家で今も家の周りに畑があることもあって 家には野菜などの食材が常にそれなりに常備されている。 冷凍庫や冷蔵庫を開ければ買い置きの肉や魚もある。



しかし、料理を作ったことが無い、作れないと 昼は自由に食べてね、と言われてもどうすればいいか分からない。


とりあえずお湯を入れればできるカップ麺やインスタントラーメンにしよう となるかもしれない。


当然、自分が食べる昼食だけの話なので空腹さえしのげれば何でも構わないのだが

選択肢が限りなく少なくなってしまうのも事実だ。


知識、経験があれば、とりあえず野菜を一口大に切って野菜炒めにしよう、だとか 卵もあるしチャーハンができるぞ、となるかもしれない。


手の込んだものをするには労力も時間もいるので 自分一人で済ませる昼食のためにどこまでやるかという話ではあるが 知識や経験があれば、選択肢が増えるのだ。


つまりこれは言い換えれば「食事選択の自由」である。



子どもでも同様で(もちろん何歳からキッチンに立たせるか 刃物や火を触らせるか、という部分で安全管理は十分に気を付けねばならないが) 何の知識も経験もなければ、冷蔵庫の中の食材は食材でしかない。 食材を料理、食事に変化させることができれば 自分が食べたいものを自分で作り出すことができ、自由を勝ち取ったともいえる。


もちろん、見方を変えれば幾ら知識や経験があっても 食材や料理器具が不足していれば作ることはできない。 これらの組み合わせが増えれば増えるほど選択肢は増え 自由の範囲が広がるのだ。





F3にportra 160を。フイルムカメラも使えるのよ、というアピール。




さて、依頼を受けて写真を撮る際

私は「カメラマン」という役割なので、私がこう撮りたい!とかではなく 「依頼者さんはどんな写真を希望しているのか」が最重要である。


相手の気持ちを汲み取れるか 相手の意思を聞き出せるか というコミュニケーションの話なので 私が言うと説得力のかけらもないかもしれない。


それでも私なりにお話を聞きながら、あるいは現場で撮りながら こういうことかな、こういう方が良いのかなと修正していく。


写真家さんが自分の感性やセンスをカメラを使って表現し 世界観を生み出していくのと違って、カメラマンは依頼者のイメージを カメラを使って具現化できるか、という部分がすべてなので ある意味では自由さとは真逆かもしれない。



しかし、である。


では依頼者さんがこういう風な希望を出している、として それを叶えるためには何が必要だろうか。


動きもので素早く合焦するAF性能を持ったカメラが必要かもしれない。

広いダイナミックレンジのセンサーが無ければ難しいかもしれない。

美しいボケで描写できるレンズがあった方が良いかもしれない。

単純に、より広く撮れる、遠くから撮れる、近くから大きく撮れるレンズなどなど 今回はこういう機材があった方がいいだろう、いや、無ければ撮れない、ということも。


カメラやレンズだけでなく、照明関係含めて 周辺機材も色々考えられるし…とまあ、考えることは多い。


機材の話だけではなく、細かい工夫や単純な意味での撮り方、というのもあって これらは知識や経験が無ければ成り立たない。


逆に言えば道具や素材、知識や経験がある事で選択肢が増えていくと より依頼に対して自由なアプローチで撮影ができる。




どうだろう、料理と似ていないだろうか。


もちろん依頼を無視して「自分の自由な発想で」という意味での

「自由」はないのだが、選択肢が増えたことでより柔軟な

ある意味では「自由な」アプローチがかけられるわけだ。


逆に、道具が無くても、知識や経験が無くても

撮れることは撮れるわけだが、その選択肢は狭まってしまう。





とはいえ、依頼をかける側も上手く言葉にできず、 「なんとなく良い感じに撮って」くらいの伝え方の場合もあるので その時はかなり難しい。


家族写真を撮って、と言われた時に 「昔の写真館のようないかにもな記念撮影」を撮るべきなのか 「自然に過ごしている様子をスナップ的に」撮るべきなのか 「1人ずつのイメージを出したポートレート風に」撮るべきなのか


打ち合わせで上手く摺合せができない またこちらが汲み取れない、といった場合もある。


そういう時はとにかくできるだけ幅広く機材を持って行く。 つまり、現場での選択肢を増やす。


そして、撮影しながらこういう方がよさそう、というのを探っていく。

現場に来てから、あ、そのレンズ持ってきてないや、では話にならないのだ。


もっといえば、現場でもできるだけ色んなパターンで撮る、というのもある。 自分はこういうスタイルだから、と自分の撮り方に固執して 結果的に依頼者の願いに沿えなければ意味がない。 写真家さんが自分の個展用の作品を撮っているわけではないのだ。 ここに「A」がある。 Aは景色であり、物質であり、人物であり、動物である。 さて、Aをカッコよく見せたい。 優しくて可愛らしい存在として見せたい。 シリアスな雰囲気で、思わず笑顔になるものに……etc


その為に必要なものは、この機材である。 こういった工夫である。 そして必要なものは何かを知っている、という知識である。 過去にそれらを撮ったことがある、という経験である。


知識も経験も機材も、増やせば増やすだけ選択肢は増える。 それは依頼者の願いに近づく選択肢である。



依頼者さんの願いが「山の頂上」であるなら 色々なルートを知っているか、その為の登山具は持っているか 場合によってはヘリでひとっ飛びした方がいいかもしれないし ロッククライミングすることになるかもしれない。




ベイクオフではテーマだけが決められて自由に作れる部門もあるが それもまた基礎の知識や道具を扱いなれているからこそできる事である。


私は万人をあっと言わせる写真は撮れないし、撮ろうともしていないが 依頼をされた方が「依頼してよかった」と思ってもらえることを目指し これからも積み重ねていきたい。 選択肢を増やし、依頼に近づくための自由なアプローチを得るために。

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