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絵本の苦手な子

この年末に、京都で中川多理さんの人形展を観てきた。

そして年明けには、大阪にインベカヲリ★さんの写真展を観に行く。


私が以前から非常に敬愛している方々である。

そんな折だからなのか、

どうしても言葉にせずにはいられなかった想いがあって、少し書いてみた。

少し長くなるが、読んで頂ければ幸いだ。




私は、絵本の苦手な子だった。


文章と絵を同時に見せられると

まるで問いかけと模範解答を同時に見せられているような気分になった。


「あるところに足の大きなおじいさんがいました」という文章を読めば

どれだけの大きさの足なんだろう、おじいさんの顔は優しい顔だろうか

服装は少しくたびれているのだろうか、と想像を広げて楽しめるのに

絵本では「そう、この人のことです」と、おじいさんが描かれてしまっている。


それは、あなたの考えなんてどうでもいいから、テストではこう書きなさい

と教えられる(あるいは暗記させられる)学校教育に似ている。



幼稚園に入った頃、周りの子たちは

先生の読む絵本や紙芝居を聞いていたが、私は先生がいない時に

紙芝居を読む側になっていた。そちらの方が楽しかった。


まだろくに字も読めない、読んでも文字を追うだけで意味の有る文として捉えられない

同い年の子たちは、声に出して読んであげるとようやく理解できるようで、その違いが妙におもしろかった。



文字の羅列、わ、た、し、という3文字が繋がると、私、自分自身を表す言葉になる、という変化を、無意識的に学び、周りの子たちの反応で実感していたのだと思う。


私は、そんな幼稚園の頃に、母から絵本を読んでもらった記憶はない。

しかし、母が芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んで聞かせてくれたことは覚えている。

物心がつくかつかないかの頃なので、正確な時系列は分からないが

恐らくそれは幼稚園に入る前の時期だったと思う。

私はいたく気に入り、幼少期のうちに何度か読んでくれとせがんだものだった。


母は、大学で国文学部を出ており、卒論では太宰治について書いたとのことで

家の書棚には、日本近代文学が多数納められていた。

何がきっかけだったかは分からないが、母はその中から「蜘蛛の糸」を選び

まだ文字が読めるかどうかの私に読み聞かせたのだ。


私は、母の声を聞きながら

地獄の様子を想像し怯え、カンダタの顔を思い描き

そしてぷっつりと糸が切れる瞬間のカンダタの心情を慮り

自分自身に置き換えて逡巡していたように思う。



そういった原体験があるからなのか、どうにも絵本というものに馴染めずにいたのだ。

カンダタはこういう顔をしている、地獄はこういうところだ、この時の心境はこうだ

と説明的に押し付けられることのない文学作品に、心地よさを感じていたのかもしれない。


小・中学校の頃には、6つ上の兄やその友人の影響もあり、様々な小説を読んだ。

家の書棚から近代文学を少しずつ読み進めてもいたし、学校の図書室で面白そうな本を探すのも楽しかった。


ゲド戦記やナルニア国物語といった古典ファンタジーも読んだ。

それらの優れた作品が、アニメや実写映画になると知った時は

なんとも寂しい気持ちになったものだ。



それらはまさに、問いかけと模範解答を同時進行で掲示する事と同義だった。

どんな世界が広がっているか、読者ひとりひとりの中にしかない不思議な光景は、

すべて模範解答によって指示され、統一が図られてしまうのだった。


物語を読めば、読者の中には、それぞれ独自の世界が広がっていく

その無限性を否定されたような気になってしまった。

本来答えの無いはずのものを「こう感じるべきだ」と押し付ける道徳教育にも近い。



そんな私が、中川多理さんの「物語の中の少女」展にいき

心奪われたのは、大きな矛盾だともいえるし、考えようによっては必然だともいえる。


物語の中の存在が、まるで受肉し唐突に現実世界に現れたかのような

美しく、儚く、しかし、生々しさと生命力を感じる人形たちは

私に、現実と物語の境目が崩壊していくその裂け目を感じさせた。


物語を映像化されることが、解答の提示、想像の廃棄と統一だと感じ

嫌悪すら感じていた私に、人形たちが示したのは全く異なるものだった。




実写化された映画の役者たちは、カットがかかれば、役柄を離れ

時間が経てば全く異なる作品に出演し、そしていずれ老いていくのに比べ

確かにそこに存在している人形たちは、永遠にその物語のままなのだ。


それは、まるで

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)の

『砂の本』を初めて読んでいる時のような感覚であった。


物語の世界とは、そしてその世界に登場するものたちは「存在している」といえるのか。

いや、そもそも「存在する」とは一体何なのか。


私は存在している、しかし私の心(抽象的過ぎるならば脳と言い換えてもよい)はどうか。

確かに存在しているといえるのか。また、その中に灯った明かりは、広がった世界は…

人形たちと対峙していた私は、いわば、物語を読んでいるのと同じで

私が物語の世界に入り込み、そして物語が私の心に入り込み、半ば溶け合っていた。



それはつまり、文字の羅列に過ぎない文章が無限に広がる世界を産むのと同じで

人形たちの存在は、世界から生み出され、同時に世界を生み出していたのだ。




今も変わらず、私は読書は好きだが、人生は有限であり、しかも現在進行形だ。

読書だけをして過ごすことはできないし、他にも興味を持つものと出会うことは多い。


この数年、私はカメラを本格的に趣味にしている。

カメラという機械が好きだし、レンズのもつ光学技術に感心し

ファインダーをのぞくだけで楽しくなっている。



また、それとは別に、写真を観賞することも好きだ。

絵画を観賞するのと同様に、あるいはそれ以上に、写真世界の深さに魅了されている。


10年ほど前にインベカヲリ★さんの写真を見た時から、それはより明確になった。

自分の中で趣味は?と問われれば「写真観賞」が上がることも珍しくないほどにだ。

氏の写真には「現代社会の中に暮らす人間」が写っている。



カメラという機械への興味と

写真を観賞する歓び、自分の中で、その2つは明確に区別されたものである。


が、しかし、同時に、カメラとは写真を撮る機械であることも揺るがない。


近年では、猫も杓子も写真を日常的に撮り、世間に発表できる時代となった。

必然的に私も写真を撮る事は増え、折に触れネットを通じて出すことも増えた。



カメラとは、レンズを介して取り込んだ光の結果を、焼き付けるものだ。

それは、ある意味で、絵本の挿絵以上に絶対的な正解を示す。

「その入り江からは、琥珀色の海に溶ける太陽が観られる」と文字で書けば

一体その景色はどんな様子だろうか、と想像を膨らませることができるが

「その入り江で撮った写真です」と見せれば、答えはそこに出ている。


絵本の挿絵が内包する、寛容な曖昧さとは隔絶された、絶対的な解答だ。

カメラは、その正確さから、残酷だともいえる。


私は、レンズが導いてきた光をどう焼き付けるか、融通のきかないカメラという機械が、

そしてその残酷で、無感情な無骨さが、やはり好きだ。


インベさんの写真は、カメラという機械をつかって撮ったのだということが

誰にでもわかるほど明確で、残酷なまでに「現実」だ。



だが、デジタル化が進み、編集・現像・加工が容易になると

世の中で目にする写真というものはかなり変化してきた。


綺麗な風景は、よりそのコントラストや彩度を強調して表現することもできる。

アマチュアのポートレート撮影が増えたからか、撮る側の工夫も随所に感じることが増えた。

相手の衣装から髪型まで事前に決める人もいる。

コスプレ系の撮影はその最たるものだろう。

表情やポーズ、立ち位置も指定して、自分にとっての正解を導き出す。


紅葉を撮りに行けば、落ち葉を池に浮かべてみたり、苔むした石灯籠に添えてみたり

シャッターを切る以外にもすることがたくさんあるのだろう。



だが、そんなものに意味があるのだろうか、とも思う。

理想図が描きたいのなら、真っ白なキャンバスに絵を描いた方が遥かに良い。

空飛ぶ教室だろうが、生きたまま焼かれる娘だろうが、なんだって描けるのだから。

現実の光を切り取るカメラを使って、なぜ作り出した理想図を目指すのだろう。


だから私は極力、写真を撮る時に画作りはしない。

そこにあるものをそこにあるように撮るだけで、このレンズをこういう設定で使えば

こんな感じに写るよね、という機械的な楽しみを見出すのみなのだ。



文章を読むときには、呆れるほどに想像を広げることを楽しむ夢想家であるのに

写真を撮る時には頑固なまでに徹底したリアリスト、とは言い過ぎだろうか。



とはいえ、現実の光を切り取る機械で、空想の世界を描こうとするなんて、と否定する気は毛頭ない。

奇妙な言い分に聞こえるかもしれないが、そうした写真を観ること自体は大好きなのだ。


あくまで撮影する前段階として、なぜ、文字通り「写実的」な機会を使って

世界を作り込もうとしたのか、という部分に違和を感じているだけである。


空想の世界に広がる、果てなき深さを知るにつけ

現実世界の中で、どうにか理想の世界を生み出そうとあがく姿には

その結果生まれたものに触れることは楽しくとも

少なくとも自分が撮る、生み出そうとするかといえば、非常に難しいことだと思う。



私は、これからも写真を見ることは、本を読むのと同じように好きだと思う。

それはきっと、まだ見ぬ世界の誕生を予見させられているからだろう。

現実と理想、空想の狭間を行き来することは

多理さんの今回の展示にも通じるものがあるのかもしれない。


「一枚の写真から広がる世界」これは以前インベさんの展示を観た時に書いた文である。

そこに写し出された人物は、確かにそこに生きていた。


光や時間を切り取るのがカメラという機械だとすれば

インベさんの写真はその瞬間の命すら切り取ったような感覚が有る。


だから、写真を見ているだけで、その人物の持つエネルギーや

これまでの軌跡が、勝手に自分の中で広がっていく錯覚を覚える。

それは身勝手な空想で、イメージの押し付けなのかもしれない。



今回の展示では、写真に文章が付記される形になるらしい。

それによって来場者の感想にも幅が出ていて、非常に興味深いとも。

しかし、私は、元から何の説明も解説もない、1枚の写真でも

世界を広げてしまう夢想家なのだ。


絵本が苦手な子は、1枚の写真や1枚の絵、1体の人形から物語を感じ取る

身勝手な空想家として成長してしまった。

写真展に文章が含まれるようになった事が、どんな変化をもたらすのか

今から展示に行く日が楽しみで仕方ない。


平成の終わりに、人形と写真から物語の広がりを感じつつ。

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