コロナ過でどうしても対面撮影が減る中で 過去のデータや経験則に基づいた形でのオンラインでの仕事をすることは増えたが いざ、撮影となるとやはり気持ちが引き締まる。
とはいえ、常々言っているように私はカメラマンなので 自分の中で「こういうものを撮ろう」といったことは思わないようにしている。
この辺りはどう説明しても理解されないこともあるし、誤解を生むこともあろうが 感覚的にはすごく大事なことだと思っている。
写真家でも芸術家とは違い、依頼者の理想に近づくべく 機材を選択し、設定や構図を練ってシャッターを切るのがカメラマンだと思うからだ。
今回の結果がどの程度満足していただけたのかは 結局のところご本人さんにしか分からないし、それが100点中どれだけだったのか なんて数値が出てくるわけではないので、これからもベストを尽くすとしか言えない。
さて、以前、将棋棋士の瀬川晶司先生が言っておられた。
アマチュアは勝った対局だけが注目されて話題になる。強かった、ここがよかった、と。
負けた対局は何も言われず注目されないので、勝てば褒められるだけで気持ちいい。
しかし、プロは負けた対局も分析され、どこが弱点か隅々まで見られる。
粘れずあっさり負けるようだと舐められるのだから、負け方も大事だ。
将棋を知らない方のために補足しておくと、瀬川先生は一度プロになれなかった方だ。
将棋のプロになる為には、奨励会という育成組織に入り、26歳の誕生日を迎えるまでに 三段リーグを突破して四段にならなければならない。
瀬川先生は三段リーグを突破できずに、26歳の誕生日を迎えてしまった。 強制退会である。
これは、残酷な鉄の掟であると同時に「26歳なら諦めてまだ別の道でやり直せる」という 最後のラインである、つまり優しさだともいえるルールだ。
しかし多くの棋士、そして棋士を目指す人々は、小学生やその前から ずっと将棋にすべてをささげてきたようなたちで、それを26歳になって突然 諦めて別の道を探せ、と言われても途方に暮れるのも事実だろう。
瀬川先生は、その後別の道に向かうため必死で模索し その後、アマチュアとして将棋の世界に戻るのだが 信じられないような好成績を残し、それにより将棋界の鉄の掟を変え 特別試験によって35歳でプロに編入するわけだが そのあたりは、著作及び映画の「泣き虫しょったんの奇跡」でぜひ触れてほしい。
どちらも素晴らしい作品だった。
そんな瀬川先生だからこそ、先の言葉は改めて非常に重い。
そう、カメラの世界も同じで 今やカメラマン人口はどれほどなのか見当もつかない。
日本国内だけで考えても、いったいどれだけの人間が日々カメラを使い 趣味とし、時に人から頼まれて撮影しているか、数百万、いや一千万を軽く超えているかもしれない。
そんな中で良い写真が撮れれば、周囲の人がほめてくれるだろう。
コンテストや写真教室の展示に出したら、賞をもらったり誰かの目に留まったり 今ならネットに上げて数万人やもっと多くの人から反応が返ってくるのかもしれない。
良い部分を見てほめてもらえる、良い部分だけが話題になる、 これは趣味を続けるうえですごく大切なことだ。
わざわざあらさがしのようなことを言われて、ここがダメ、と言われれば 誰だって良い気持ちはしないだろう。
しかし、瀬川先生の言うように、プロの世界はそうではないのだろう。
良いんじゃない、悪くないんじゃない、と多くの人が思う写真でも ここがダメ、こういうところが酷い、この人こういうの下手だよね そういう評価が下されて当然なのかもしれない。
そしてそれは、どんな人であっても、完璧であることはほぼ無いのだから 重箱の隅をマクロレンズでチェックしたようにあら捜しをされれば まあでもこれってここが甘いですよね、と言うことはできてしまうのかもしれない。
私は芸術家ではない。
センスや美意識みたいなものは最初から考えたこともない。
しかしカメラを操作するプロとして、依頼を受け、報酬を得る以上
良い部分を見て評価されるよりも、悪い部分ばかりを見られる、という覚悟が必要だろう。
そしてそのことから何を学ぶか、得るか、ということこそが
プロの本質といっても良いのかもしれない。
自分の好みや方向性など、プロとしての私には必要ない。
その時々のベストな機材選択と設定や工夫を考え そのうえで今回のダメな点を意識し、ではどうするべきだったか
そのために必要な機材、そして設定や撮影方法を常に更新し続ける。
それがプロとしての私の矜持である。
ぐるぐると回る思考の渦の中でも、ぶれない軸があるとすれば、その事である。
Z6 + Petzval 55mm f/1.7 MKⅡ
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